大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

浦和地方裁判所 昭和52年(ワ)187号 判決 1982年5月21日

原告

江口ヒデコ

被告

大塚清

ほか一名

主文

1  被告らは各自原告に対し、金一、五六二万二、四四六円、及び、内金五〇万三、二八二円に対する昭和五二年三月一九日から、内金二八七万三、二七六円に対する昭和五三年九月七日から、内金一、二二四万五、八八八円に対する昭和五四年六月七日から、各支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求は、これを棄却する。

3  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告の、その二を被告らの負担とする。

4  この判決は、原告において、被告らのため金三〇〇万円の共同担保を供するときは、主文第一項につき、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自原告に対し、金五、二六三万七、四九二円及び内金一、〇九八万五、七九五円に対する昭和五二年三月一九日から、内金六一三万五六四五円に対する昭和五三年九月七日から、内金三、五五一万六、〇五二円に対する昭和五四年六月七日からそれぞれ支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁(被告ら)

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  事故の発生

承継前の原告江口正弘(以下「正弘」という。)は昭和五〇年七月二八日午前八時一〇分頃埼玉県岩槻市大字岩槻一九二番地先路上を歩行横断中、同人の左方より進行して来た被告大塚清(以下「清」という。)運転の普通貨物自動車(埼四四み九二七六号、以下「加害車」という。)と衝突し(以下右の衝突事故を「本件事故」という。)、頭部打撲、脳挫傷、両下腿開放性骨折、左第二ないし第五指伸筋腱開放断裂、顔面及び両前腕挫創の各傷害を負つた。

2  承継前の原告正弘の死亡

正弘は昭和五四年一月二七日縊首により自殺した。すなわち、正弘は、本件事故当日以降埼玉県内の丸山病院及び福岡県内の森整形外科医院に入院し本件事故による傷害の治療を続けたが、本件事故後一か月以上意識の混濁が継続し、昭和五〇年九月に至り漸く外部と意思を交すことができるようになつたものの、付添看護者に対し暴力を振つたり怒鳴つたりする興奮状態のまゝ一年近くを経過した。同人は、その後も治療の効果が中々上らず、昭和五三年七月二五日一旦治療を打切つたが、自動車損害賠償保障法(以下「自賠法」という。)後遺障害等級表の七級に相当する障害を残し、なお、骨折した左下腿の骨が次第に腐り単にベツドから降りただけで骨折を繰り返す状態で、数年後に再手術を要するというものであつた。

以上のような治療経過と後遺障害のほか、同人が新たに事業(山川自動車)を始めて間もなく本件事故に遭遇したため、その後右事業の進展もなく毎日の収支が赤字の状態で経過している等の事情も加わり、同人は、所謂ノイローゼ状態で毎日を悶々と過していた結果、遂に、昭和五四年一月二七日発作的に首つり自殺をしたが、右自殺は、本件事故による脳挫傷等の傷害の結果、正常な判断と意思決定が不可能な精神状態において行われたものであつて、本件事故との間に因果関係がある。

3  責任原因

(一) 被告大塚高一(以下「高一」という。)は、加害車の所有者で、これを子の被告清に貸与し、被告清が勤務先の春日部市あさこ自動車整備工場に通勤するために用いさせ通勤費用の支出を免れて、運行を支配し運行の利益をえて、自己のためにこれを運行の用に供したものである。したがつて、被告高一は自賠法三条により正弘の被つた損害を賠償する義務を負う。

(二) 被告清は、法定制限速度五〇キロメートルを遵守し運転すべき義務があるほか本件事故現場の状況は、加害車を運転する被告清の進行方向の右前方道路端に自動車が停車しており、加害車からはその物陰部分の見通しができず、その物陰から人が飛び出してくることも十分に予測できたのであるから、加害車を運転する被告清としては、特に右物陰から人が飛び出さないかどうか前方を注視して運転進行すべき注意義務があるところ、被告清はこれを怠り物陰から人が飛び出さないものと軽信して漫然と時速七〇キロメートルで運転進行した故意過失がある。そのため、その物陰から飛び出してその進路前方を右から左に横断歩行した正弘に全く気付かず、何らの措置をとらないまま正弘に接触し本件事故を起した。よつて、被告清は民法七〇九条により正弘の被つた損害を賠償する責任がある。

4  損害

本件事故により正弘の被つた損害は、合計金五、八四八万六、一〇三円で、その内訳は次のとおりである。

(一) 本件事故による直接の傷害分 小計金二、一二五万七、九四二円

正弘は、丸山病院において昭和五〇年七月二八日から昭和五一年一一月一八日まで(入院)、昭和五一年一一月一九日から昭和五二年一月八日まで(通院)、昭和五二年一月九日から同年二月一七日まで(入院)、森整形外科医院において昭和五二年三月一四日から同年八月一六日まで(通院)、昭和五二年八月一七日から昭和五三年四月一五日まで(入院)、昭和五三年四月一六日から同年七月二五日まで(通院)の各期間それぞれ本件事故による傷害の治療を受けた。

(1) 治療費 金三七二万二、〇九八円

(2) 付添看護費 金八八万八、九七八円

昭和五一年六月二五日から同年一一月一八日まで

(3) 入院諸雑費 金三八万一、〇〇〇円

入院七六二日間、一日当り金五〇〇円

(4) 逸失利益 金九四九万〇、四七一円

本件事故前三か月間の平均月収金二四万〇、三九九円、休業期間(昭和五〇年七月二八日から昭和五四年一月二七日まで)四三か月、新ホフマン係数(月別)三九・四七八

(5) 治療期間中の正弘の慰謝料 金四〇〇万円

(6) 山川自動車の営業上の損失 金二七七万五、三九五円

(二) 死亡による分 小計金三、七二二万八、一六一円

(1) 葬儀費用 金五〇万円

(2) 逸失利益 金二、八七二万八、一六一円

死亡当時年齢三二年、就労可能年数三五年、新ホフマン係数(年別)一九・九一七、平均月収二四万〇、三九九円、生活費の割合五〇パーセント

(3) 慰謝料 正弘本人の慰謝料は金八〇〇万円が相当である。

(三) 原告承継人江口ヒデコ(以下単に「原告」または「ヒデコ」ともいう。)は承継前の原告正弘の母であり、正弘には、未だ配偶者、子もなく、父民治はすでに死亡していたから、ヒデコが単独で相続し、正弘の前記損害賠償請求権を相続した。

5  結論

よつて、原告は、被告ら各自に対し、損害賠償として、前記損害額内金五、二六三万七、四九二円、及び、内金一、〇九八万五、七九五円に対する昭和五二年三月一九日から、内金六一三万五、六四五円に対する昭和五三年九月七日から、内金三、五五一万六、〇五二円に対する昭和五四年六月七日から(右各起算日はいずれも各損害が発生し履行遅滞となつた日以後である。)それぞれ支払済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  原告の請求原因に対する被告らの答弁、仮定抗弁

1  請求原因1の事実のうち、本件事故の発生は認め、正弘の受傷の内容、程度は知らない。

2  同2の事実のうち、正弘が原告主張の日に自殺したことは認め、その余の事実を争う。

本件事故による受傷より重い傷害を負つた者でも通常は自殺に至ることはないのであり、正弘の自殺は、同人の精神状態や事業の不振等本件事故以外の原因によつて惹起されたもので、本件事故との間に相当因果関係がない。

3(一)  同3(一)の事実のうち被告高一が加害車を所有し子の被告清がこれを運転使用していたことは認めるが、その余の事実は争う。

(二)  同3(二)の事実のうち、被告清が加害車を運転していたことは認め、その余の事実は否認する。本件事故は後記のとおり正弘の過失に基づくもので、被告清に過失がない。

4(一)  同4(一)の事実は争う。

(二)  同4(二)の事実は争う。

(三)  同4(三)の事実は認める。

5  同5の事実は争う。

6  被告高一は仮定抗弁として次のとおり主張する。本件事故について、被告清には何らの過失がなく、もつぱら正弘の過失により発生したもので、加害車には構造上の欠陥、機能の障害がなかつたから、自賠法三条但書により、損害賠償義務を免れる。すなわち、(1)被告清は、前方を十分に注視しながら制限速度内で運転進行していたものであり、何ら過失はない(刑事事件は不起訴となつた。)。(2)本件事故はもつぱら正弘の過失による。横断歩道ではない場所を横断するにあたり、道路端に自動車が停止しているとその自動車に遮られて道路左右の交通状況が確認できず、直ちに横断を開始すると、自動車に接触するおそれがあるから、その自動車の前方まで進み道路右左の交通状況を十分に注視し安全に横断できることを確認した後に道路の歩行横断を開始すべき注意義務がある。しかるに、正弘は、これを怠り、停車中の自動車の直後から突如駈出し、加害車の進路前方を右から左に横断したものであり、本件事故は右正弘の過失により発生した。(3)そして、加害車には本件事故の原因となるべき構造上の欠陥及び機能の障害がなかつた。

7  仮りに本件事故において被告清に多少の過失があり損害賠償義務を負うとしても、前記6のように正弘の過失割合が大きいから、損害賠償の額を定めるにつきこれを斟酌すべきである。

8  被告らは、正弘に対し、本件事故による治療費、付添看護費(昭和五〇年七月二八日から昭和五一年六月二四日までの分)、休業補償費等の損害につき合計金六〇四万八、〇四二円を、内金五七九万八、〇四二円は昭和五二年八月二二日以前に、残余は遅くとも昭和五四年六月六日までに支払つた。

三  被告らの仮定抗弁に対する原告の再答弁

1  被告高一主張二6の事実(免責の抗弁)は争う。

2  被告ら主張二7の事実(過失相殺)は争う。

3  被告ら主張二8の事実(弁済)は争う。

第三証拠〔略〕

理由

一  本件事故の発生

原告請求原因1の事実(本件事故の発生)は当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨により各真正に成立したものと認められる甲第三、第一二号証によれば、本件事故により正弘が頭部打撲による脳幹部(左側後頭部位)挫傷、両下腿骨開放骨折、顔面及び両前腕挫創、左手第二ないし第五指伸筋腱開放断裂の各傷害を負つたことが認められる。

二  正弘の自殺及び本件事故との因果関係

1  正弘が本件事故による傷害につき通院治療中昭和五四年一月二七日自殺したことは当事者間に争いがない。

2  原告は本件事故と正弘の自殺との間に因果関係があると主張する。

(一)  病理学的因果関係の有無

各成立に争いがない甲第一四、第一六号証、記載が整然画一であるので各真正に成立したものと認められる甲第三、第四、第一〇、第一八、第二一、第二三号証、弁論の全趣旨から各成立が認められる甲第一一、第一二号証、証人高橋光彦の証言により真正に成立したことが認められる甲第二五号証、同証人及び同江口義助(第一、第二回)の各証言、原告本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 正弘は、本件事故後直ちに岩槻市本町にある丸山病院に入院し、両下腿開放創に対する処置、左手第二ないし第五指伸筋腱縫合術の施行を受けたが、その傷害のほかことに、左側後頭部に脳幹部の挫傷を負い上下肢、躯幹の激しい動きを伴う意識混濁の状態が約一か月間続き、相当の精神的な障害を残すような症状があつたため、入院当初は、脳外科的治療を主とし、全身管理(経過観察)を行なつた。翌八月末に至り漸く意識状態が次第に回復し、全身状態も改善された。

(2) その後両下腿骨骨折に対する本格的な治療が開始され、そのうち右下腿骨骨折については多少の変形を残しながらも骨癒合が生じたが、左下腿骨骨折については、創部の炎症が容易に治癒せず骨髄炎や偽関節形成を来したため、翌五一年五月頃までに植皮、植骨、キユンチヤー髄内釘固定等数回にわたり手術が施行された。更に、同年八月頃から歩行訓練を始め、同年一一月一九日から翌五二年一月八日の間一時通院治療(治療実日数四〇日)となり、翌九日再入院して左下腿のキユンチヤー釘を抜去した結果、術部に醜い肉芽を残しつつも骨癒合がほぼ完成し、体重完全負荷も可能な状態となつたので、昭和五二年二月一七日丸山病院を退院した。

(3) その後、実兄江口義助の勧めに従い福岡県の実家に戻つて治療を続けることとし、翌三月一四日から同県山門郡瀬高町にある森整形外科医院に単独で通院を始め、両下肢の筋力低下、両足関節拘縮による機能障害が認められたので理学療法を主とする機能回復訓練を受けていた(治療実日数七七日)ところ、同年八月一六日歩行中に転倒して左下腿骨骨髄炎部を再骨折したため、翌一七日から同医院に入院し理学療法を施行して右骨折部の仮骨形成の促進を図つたが、再び偽関節形成を来たし、そのため同年一一月二八日骨移植術を実施した。以後仮骨形成は良好に転じ、両足関節拘縮に対する理学、薬物療法も併せて施され、独歩可能な状態にまで軽快したので、翌五三年四月一五日退院となつた。同年七月二五日までは同医院で通院治療(治療実日数一三日)を続け、その間歩行訓練により筋力も回復して漸く治癒に至つた。

(4) その時点で次のような症状が残つた。まず、精神症状としては、時折発作的な頭痛に襲われ、物忘れが著しい状態が持続的であつた。身体症状としては、両側肘関節痛、右足関節から踵骨、アキレス腱にかかる部位の痛み、両側腸骨翼部の骨片採取部の疼痛等を覚え、腕に力が入り難い、或は屈んだり階段を降りるのに困難を感ずる等の自覚症状と、左手関節掌屈機能障害、両足関節背屈、底屈機能障害、右下腿の外旋位のねじれ(約七度)、左前腕二か所、右下腿一か所、左下腿三か所にそれぞれ七センチメートルから一九センチメートルの醜状痕、両下腿骨折部の変形治癒(とくに左脛骨に著しい変形と抵抗性減弱が認められ再骨折の危険がある。)等の他覚症状とが後遺障害として固定した。

以上のとおり認められる。

右事実によると、正弘がたとえばてんかん性精神病をひき起すような脳器質の損傷を本件事故により被つた形跡はなく、本件事故による外傷が正弘に精神病を発生させたとする病理学的な因果関係の存在については証明されていないものということができる。したがつて、この意味での因果関係を理由としては、原告の請求を理由つけることはできない。

(二)  相当因果関係について

前記(一)のような病理学的因果関係を基本とした考察を行う相当因果関係もまた否定されることになる。また、相当因果関係説のうち民法四一六条二項の特別事情による損害を不法行為の場合に準用する見解があるが、これによると、本件のように事故後三年有余を経過後に自殺した場合においては、本件事故当時自殺につき加害者である被告清が予見しまたは予見することが可能とはいえず、この点から直ちに因果関係を否定することとなるが、前記認定のように本件事故による傷害が直ちに精神異常を来すわけではないが、そうかといつてこれが全く原因となつていないわけではない場合の因果関係を考察する理論としては、適切とはいえない。したがつて、相当因果関係説もまた原告の請求を理由つげることができない。

(三)  その余の観点からみた因果関係について

(1) 前記(一)認定の事実によると、正弘は本件事故による脳挫傷のため事故後約一か月間意識混濁状態が継続しており、それが精神障害の原因となつたものということができる。

(2) そこで、正弘の精神障害の内容、程度についてみるのに、前顕甲第一一、第一二、第二五号証、証人江口義助(第一、二回)、同高橋光彦の各証言、承継後の原告本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。

(イ) 正弘が本件事故後直ちに入院した時の状態は、脳器質に若干の損傷を受けた脳挫傷で脳震盪を伴い、一時的な意識喪失状態で、そのまま約一か月経過した。

(ロ) 本件事故後約一か月して意識が回復してからは、駄々つ子のように、気分により食事や薬を拒否したり、同室の患者と口をきかず、些細な事に腹を立てて物を投げつけ、感情の変化が激しく、そのため付添婦が約一年半の間に数人交替せざるをえなかつた。また、風の音を波の音と思つたり、おかしなことを口走つたりした。

(ハ) 再入院後退院した昭和五二年三月ころ以後は自宅の暗い部屋の片隅で沈思し終日黙り込んでいる状態だつた。そこで、兄義助が、気分転換の意味も含め原告ら家族や友人のいる郷里で歩行訓練を受けさせるため、実家に連れ帰つたが、そこでも相変らず塞ぎ込み、時には突然歌い出したり、物を投げつけるなど、その余りの変りように、従前の正弘の性格を知る原告らを「人が変つた。」と驚かせた。実家から森整形外科医院に通院し始めると、医師に対し治療期間や回復程度を心配げに質問し、それまでの長期にわたる治療生活の疲れを窺わせた。

(ニ) 前記(一)認定のように再骨折で入院(昭和五二年八月)した際、「自分の人生は狂つてしまつた。親兄弟に迷惑ばかりかける。」等悲観的な言葉を漏らし、下を向いて小声で話し、その言動に全く活気がみられず、入院中も、物忘れ、発作的頭痛を訴えていた。骨移植術により独歩可能となつた昭和五三年初め頃になると、一転して早朝から戸外に出て放歌する姿もみられ、多弁となつたが、その反面、些細な事で怒り易く、精神的に不安定な状態であつた。

(ホ) 同年四月森整形外科医院を退院する頃には医師に対し「運転に支障のないノークラツチ車を購入したい。」等社会復帰の希望を語つていたが、歩行も足をかばいながらゆつくりと歩ける程度であつたため、岩槻市に戻つて同年八月頃から実際に仕事に携わるようになると、足の痛み等から思うように作業に就けず、自室に閉籠つてじつと考え込むことが多く、仕事にも出たり出なかつたりで、友人も人が変つてしまつたと述べていた。また、自室で自分の歌をカセツトテープに吹込んだり、女性に軽々しく声をかけたりした。その頃受診していた丸山病院の医師に対し物忘れがひどいこと、考えがまとまらないこと、不眠、再骨折の恐怖、社会復帰に対する不安などを頻りに訴え続け、反面、空陽気なところも見られた。昭和五三年一〇月八日武井医師に対し「やつとやれるようになつた。ゼロからやり直すつもりだ。来年は嫁さんをもらう。」と語り、多幸的状態を示した。しかし、他方では、義姉に対し「座禅をやつていると、死ぬことは全くこわくなくなる。」といつたり、自室で紐を首に巻いているのを家族の子供が見ており、自殺をほのめかすことも言つていた。

(ヘ) 右鈑金工場の経営は不振となり赤字が累積していたが、実兄の江口義助(運転手)などが資金援助をし、辛うじて経営を続けていた。右兄に対し、工事の閉鎖の相談をしたこともあり、従業員の給与の支払にも苦慮していた。

(ト) 昭和五四年一月二七日工場に行かず何の連絡もなかつたので、家族、友人、従業員などが心当りを探したところ、午後三時ころ鈑金工場の裏山の林の中で縊死し自殺している正弘を発見した。推定死亡時刻は同日の午前三時ころであり、遺書(手帳)には赤いボールペンで「仕事ができないのがつらい。」と書かれていた。

以上のとおり認められる。

(3) 右(2)の精神障害と自殺の関係について、前顕甲第二五号証、証人高橋光彦の証言を総合すると、次の事実が認められる。

(イ) 千葉病院精神科医師高橋光彦が、正弘を直接診察したことはないが、死後に、自ら、正弘の生前の担当医師、親族、友人などから聞いて調査した前記(2)に符合する事実からみて、以下のように診断される。

(ロ) 前記(2)(イ)認定の約一か月間の意識喪失状態は脳挫傷に伴う急性症状であり、同(ロ)の意識回復後の状態は、いわゆるせん妄期症状(右急性症状が治まつたときにこれに引続いて起つた第二段階の精神障害)で、幻覚妄想、運動興奮を主とするものであり、同(ハ)、(ニ)は、第三段階の健忘症候群を意味し、このような段階を経て、易怒期、多幸的にその性格が変化し、本件事故の身体的傷害による社会的不適応が主要な心因となり、それに、同(ホ)、(ヘ)の工場経営不振に伴う心因及び性格的に一途であることも重なつて、漫性的な神経症(抑うつ反応)が後遺症として固定したものである。

(ハ) 右(ロ)のような神経症患者が縊死自殺をした場合、その自殺は、神経症(抑うつ症)の発作とみる蓋然性が相当程度存在し、病理学的にそのように解しても矛盾がない。正弘の自殺についても、これと同様である。以上のとおり認められる。

(4) 以上に考察したように、交通事故による傷害の一応の治療後に自殺したときにおいても、事故による傷害の一つとして、脳器質損傷による後発性てんかん性精神病にはいたらない程度の脳挫傷があり、その病状として、脳震盪、せん妄期症状、健忘症候群などの明らかに脳挫傷が精神障害を生ぜめしたとする症状があり、これに、事故による両下腿骨折とその治癒が困難であることに伴い社会的不適応状態が発生し、それが主要因となつて神経症(抑うつ反応)が発症した場合、事故と神経症との間には相当因果関係(病理学的因果関係)を肯認することができる。しかし、神経症と自殺との間には、直ちに病理学的因果関係を肯定することはできないものといわなければならない。

しかしまた、法律上の因果関係は必ずしも右の意味での病理学的な相当因果関係に限定されるものではなく、病理学的には、未だ神経症と自殺との間の病理機序の解明がなされなくても、社会的にみて、自殺が右神経症に基づくものとみられ、そのように解することがまた病理的にみても相当程度の蓋然性を有し、矛盾がない場合においては、その交通事故と自殺との間に因果関係があるものと解するのが相当である。このことは、他に自殺の原因が競合している場合においても同様であり、その競合関係の評価は、損害額の算定にあたり、その寄与割合に応じて斟酌することによつて行えば足りるものというべきである。本件において、正弘の自殺は、右説示の理由から、本件事故と因果関係があるものというのを妨げない。この点の前記原告主張は理由がある。

三  被告らの賠償責任

1  被告高一が加害車を所有し子の被告清がこれを運転使用していたことは原告と被告高一間で争いがなく、被告大塚清本人尋問の結果、弁論の全趣旨を総合すると、被告高一が被告清に加害車を貸与し、被告清が勤務先の春日部市あさこ自動車整備工場に通勤することにこれを使用し、その使用料は特に定めていないが、子である被告清(当時二四歳)の生活費を援助する一形態として、その交通費負担を免れ、ないし、軽減させていたことが認められる。右事実によると、被告高一は、加害車の運行を支配しその運行利益をえたものというのを妨げず、自己のために加害車を運行の用に供したものということができる。

2  原告は、被告清に対する請求につき本件事故が同被告の過失に基づくことを主張し、他方、被告高一は、自賠法三条但書の免責事由の一事情として本件事故が専ら正弘の過失に基因し被告清に過失がなかつた旨主張する。

(一)  成立に争いがない甲第一、第九号証、証人江口義助(第一回)の証言、被告大塚清本人尋問の結果、弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 本件事故は埼玉県岩槻市大字岩槻一九二番地先県道蒲生岩槻線上で発生し付近の右県道は両側の各幅一・五メートルの歩道と縁石線により区画された幅七・〇メートルのアスフアルト舗装路面の車道を有する平担な道路で、付近の道路標識により、最高速度毎時五〇キロメートル、終日駐車禁止の標示がされている。本件事故当時、天候は晴で路面が乾燥していたほか、周辺の交通状況については、車両の通行が頻繁であつたが、歩行者、自転車の通行は少なかつた。進行方向右側対向車線の道路寄りに正弘の一時停車した普通乗用自動車が停車中で、被告清が右自動車を発見した約一〇数メートル前方からは、その背後方向(北東側)の一部がその自動車の陰となり、見通しができない部分があつた。

(2) 被告清は、本件事故当日午前七時五五分頃肩書住所地にある自宅を加害車を運転して出発し、午前八時三〇分の始業時間に問に合うよう時速約七〇キロメートルで本件事故現場付近にさしかかつたところ、前記正弘の一時停車中の自動車背後部分から正弘が走り出るのを、約一〇数メートル前方で発見し、同時に衝突の危険を感じ急制動の措置をとつたが間に合わず、同人の下腿ないし左前腕に加害車のフロントバンパー及びボンネツト前部の各中央付近を接触させ、更に、同人を加害者のボンネツト上にはね上げたうえフロントウインドガラスに打付けた。さらに、加害車は、正弘をボンネツト上に乗せたままスリツプしながら右斜前方に滑走し、加害車の右側部分が車道中央線を越えて対向車線内に侵入したところ、対向南進してきた普通乗用自動車の右側後部ドア付近と加害車前部右側付近とが接触し、その反動で再び走行車線内に押戻され左斜前方に約一〇メートル進行した後、走行車線左側に停止し、同時に正弘がボンネツト上から転落の上加害車前方の路上に転倒した。

以上のとおり認められる。

(二)  右認定(一)(1)の事実によると、本件事故現場を運転進行する自動車運転者としては、法定の制限速度である時速五〇キロメートル以下を遵守し、停車中の自動車物陰から人が横断を始めることも予測できたので進路前方を横断する者がないかどうかを十分に注視して運転進行すべき注意義務があり、被告清もその注意義務を負うところ、法定制限速度を越えた時速七〇キロメートルを維持したまま前方の注視を怠り進行した過失があり、本件事故はこれによつて発生したものということができる。

したがつて、この点の原告主張は理由があり、被告高一の賠償免責の抗弁は、この余の点につき判断するまでもなく失当に帰する。

3  よつて、被告清は民法七〇九条により、被告高一は自賠法三条により、それぞれ正弘の被つた損害を賠償する義務を負う。

四  損害

1  本件事故による直接の傷害分

(一)  前顕甲第四、第一四号証、各成立に争いがない甲第七号証の一ないし一五、甲第八号証の一ないし一八、甲第一五、第一七号証、乙第一号証の一ないし二一、乙第二号証の一ないし七〇、記載の整然画一性から成立が認められる甲第五、第六、第一九、第二二、第二四号証、甲第二〇号証の一、二、証人江口義助(第一、二回)の証言、原告江口ヒデコ本人尋問の結果、弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(1) 治療費

正弘は、本件事故により受けた傷害のため丸山病院において昭和五〇年七月二八日から昭和五二年二月一七日まで入院治療、森整形外科医院において昭和五二年三月一四日から昭和五三年七月二五日までそれぞれ入院及び通院による治療を受け、治療費合計金七八五万八、七二〇円〔内訳岩槻市国民健康保険分金四一三万六、六二二円(その内訳昭和五二年三月一八日まで金三三〇万六、二二六円、同年同月一九日以後金八三万〇、三九六円)、正弘負担分金三七二万二、〇九八円(その内訳同年三月一八日まで金三三〇万七、三一四円、同年同月一九日以後金四一万四、七八四円)、各額は、甲第五、第一五、第一七、第一九、第二二号証、甲第二〇号証の一、二の集計による。〕

(2) 付添看護費

正弘は、本件事故当日から昭和五一年一一月一八日まで丸山病院に入院し、その間意識混濁、歩行不能などで付添看護を要する状態にあつたため、付添婦を依頼したが、右期間中の付添看護費として合計金二八五万二、一一〇円(内原告支払分金八八万八、九七八円、その余は被告ら支払分)を要した(右のうち原告支払額は甲第八号証の一ないし八の、被告清支払額は乙第二号証の一ないし七〇の集計額による。)。

(3) 入院諸雑費

正弘は丸山病院において昭和五〇年七月二八日から昭和五一年一一月一八日まで(四八〇日間)、昭和五二年一月九日から同年二月一七日まで(四〇日間)、森整形外科医院において昭和五二年八月一七日から翌五三年四月一五日まで(二四二日間)それぞれ入院した期間(合計七六二日間)中の諸雑費は、少なくとも一日当り金五〇〇円として、合計金三八万一、〇〇〇円を要した。

以上のとおり認められる。

(二)  逸失利益

(1) 証人江口義助(第二回)の証言から各成立が認められる甲第二、第二七、第二八号証、甲第二六号証の一ないし四、証人江口義助(第一、二回)の証言、原告本人尋問の結果を総合すると、正弘は昭和四〇年郷里の高校卒業後岩槻市の兄義助の許に身を寄せながら鈑金工としての経験を積み、昭和四七、八年頃から個人で自動車鈑金塗装業を営んでいたところ、本件事故直前の昭和五〇年四月から同年六月まで三か月間の営業純収益は合計金七二万一、一九七円、平均月額金二四万〇、三九九円であつたとの事実が認められる。ところで、右平均月額を基準とした年間純収益金二八八万四、七八八円は、昭和五〇年当時の全国男子一般労働者の平均年間給与額(産業計、企業規模計、学歴計)二三七万〇、八〇〇円(このことは昭和五〇年賃金センサス第一巻第一表により当裁判所に顕著な事実である。)の約二割増であつて、正弘の鈑金塗装工としての経歴をも考慮すれば、本件事故後死亡までの間右の程度の収益を上げえたものということができる。したがつて、本件事故のあつた昭和五〇年七月二八日から正弘が自殺した日の前日である昭和五四年一月二六日までの間においても、少なくとも右平均月額を基準とした四二か月分合計金一、〇〇九万六、七五八円(240,399×42)の収益を上げることができたものといえる。ところで、正弘の右期間(ただし、昭和五〇年八月から昭和五四年一月まで)中の純収益は零(黒字となつた月の合計額は金九四万七、三六〇円、赤字となつた月の合計額は金三五九万八、三〇〇円で、差引金二六五万〇、九四〇円の赤字となつたこと計算上明らか。)であることが、前記冒頭掲記の各証拠を総合すると認めることができるから、結局正弘の逸失純利益額は、金一、〇〇九万六、七五八円となる。

(2) 原告は、山川自動車の営業上の損失として、正弘の前記休業期間中の赤字相当額金二七七万五、三九五円を損害として計上するが、右事情は特別事情にあたるところ、本件事故当時被告清においてこれを予見しまたは予見可能であつたことを認められる証拠がないので、失当である。

(三)  過失相殺について

前記2(一)認定の事実によると、横断歩道のない交通量の多い車道を自動車の背後部分から真横に車道を横断し始めると車道を通行する車両と接触する危険が大であるから、車道の右左を十分に見通せる位置まで停車中の自動車の稍車道寄りに進み、一旦停止した上右左の車両進行状況を注視し、安全に車道を横断できることを確認した上で、横断を始めるべき注意義務があり、正弘もまた同様といえる。

しかるに、前記2(一)冒頭記載の証拠を総合すると、正弘が右注意義務を怠り横断の安全を確認することなく、停車中の自己の自動車物陰から、直ちに走り出し、車道を東から西に横断したことが認められ、正弘にはその過失があり、右過失がまた本件事故の一因となつているものということができる。ところで、右正弘の過失の寄与割合はほぼ三分の一程度とみるべきであり、これを前記(一)、(二)の損害額(合計額金二、一一八万八、五八八円)算定につき考慮すると、前記(一)、(二)の損害の合計額は、金一、四〇〇万円とするのが相当である。

(四)  傷害による慰謝料

前記(一)の傷害の程度、入院及び通院治療期間などからみて、正弘は本件事故による傷害の結果多大の精神的苦痛を被つたものということができ、これに前記(三)の過失相殺の事情その他前記認定の諸事情によれば、その慰謝料額は、金二五〇万円とするのが相当である。

2  死亡による損害

(一)  葬儀費用

原告本人尋問の結果によると、原告は岩槻市と福岡県の郷里で合計二回にわたり正弘の葬儀を行いそのためそれぞれ約六〇万円及び約五〇万円を支出したことが認められるが、当時の葬儀費用としては、通常の場合一回に限り金五〇万円をもつて相当とし、他は特別事情に属するところ、本件ではその予見ないし予見可能性の立証がないので失当である。右葬儀費用は本人の死後に原告ヒデコが支出したものであるが、本人の死亡の場合葬式等仏事をするのが通常で、本人について生じた損害とみることができる。

(二)  逸失利益

原告本人尋問の結果によると、正弘(昭和二二年一月一日生)は本件事故前健康な男子であつて死亡(昭和五四年一月二七日)当時満三二歳であつたことが認められる。就労可能年数は満六七歳までとするのが相当で、それまでの間ほぼ三五年となり、右年数に対応する年毎年利五分のライプニツツ係数一六・三七四一を死亡当時の年収金二八八万四、七八八円から生活費として五〇パーセントを控除した額に乗じて算出した金二、三六一万七、九〇三円(2.884788×1/2×16・3741)が死亡による逸失利益となる。

(三)  賠償責任の範囲

前記二2(三)説示のとおり、本件事故と正弘の自殺との間に因果関係が存在するが、被告らの損害賠償責任の範囲は、自殺の結果の中に占める本件事故による傷害、すなわち、後遺症としての前記神経症(抑うつ反応)、の寄与する割合に限定されるものというべきであり、その割合は、前記(一)、(二)の損害(合計額金二、四一一万七、九〇三円)のうち三割強にあたる金七五〇万円とするのが相当である。

(四)  死亡による正弘の慰謝料

前記(三)の責任割合、その他前記認定の諸事情を考慮すると、死亡による正弘の精神的苦痛に対する慰謝料は金一五〇万円とするのが相当である。

五  弁済について

1  前記四1(一)(1)認定の事実によると、正弘の治療費のうち岩槻市国民健康保険から金四一三万六、六二二円支払われているから、その一部弁済とみることができる。もつとも、被告清の岩槻市に対する求償債務額については、成立に争いのない乙第四号証の一、二によると、右額と異なることが認められるけれども、このこと及び、被告清がその求償債務の一部支払をしていることは、何ら原告に対する本件損害賠償債務の支払に影響を及ぼすものではない。

2  前顕乙第一号証の一ないし一五、一八ないし二一、弁論の全趣旨を総合すると、被告清は正弘の治療費のうち正弘負担とされた昭和五〇年七月二八日から昭和五一年三月二〇日までの分合計金二一二万七、八〇〇円を支払つたことが認められ、前顕乙第二号証の一ないし七〇、弁論の全趣旨を総合すると、被告清が正弘に対し、昭和五〇年七月二八日から昭和五一年六月二四日までの付添看護費用として合計金一九六万三、一三二円を支払つたことが認められ、各成立に争いのない乙第三号証の一ないし一一、弁論の全趣旨を総合すると、被告清が正弘に対し正弘の傷害による逸失利益(休業補償)として、昭和五〇年一〇月三〇日から昭和五一年六月一五日までの間一一回にわたり各金一五万円ずつ合計金一六五万円を支払つたことが認められるが、被告らの弁済の主張事実のうちその余の部分はこれを認めることのできる的確な証拠がない。

3  ところで、保険給付についてはその弁済名目を他に変更しえないけれども、他の弁済名目は拘束性があるとみるのは相当ではなく、また、弁済内容について個々に過失相殺、寄与割合に応じた賠償額が算定できないわけではないが、それをしたとしても、結局他の名目の賠償債務が残存する場合改めてこれとの相殺計算をしなければならなくなり、手続的に煩さである上、結論額が全く異ならない結果となるから、損害賠償訴訟においては、各弁済内容の責任割合を論ずることなく、被告らが賠償すべき結論額の内入弁済に充当する取扱いをするのが相当である。したがつて、被告清の支払つた前記2の額もその全額を内入弁済として計算することとする。被告らのこの点の主張は右の限度で理由があり、その余は失当である。

六  正弘が婚姻しておらず、子もなく、母である原告ヒデコが単独相続した事実については、当事者間に争いがない(なお、職権で調査するのに、記録に綴られ公文書で真正に作成されたものと認められる筆頭者江口民治の戸籍謄本、原告本人尋問の結果を総合してこれを認めることができる。)。したがつて、原告ヒデコは承継前の原告正弘の前記各損害賠償請求権を昭和五四年一月二七日正弘の死亡とともにこれを相続し取得したものということができる。

七  遅延損害金について

原告は本件損害賠償請求にあたり各損害を分割し、昭和五二年三月一九日、昭和五三年九月七日、昭和五四年六月七日の各起算日以降の遅延損害金の支払をそれぞれ求めるところ、前記認定の各事実によると、遅くとも右各起算日までに発生したことが認められ遅延損害金支払の対象となる各損害はそれぞれ別表2のとおりであることが認められる。なお、傷害の逸失利益額金一、〇〇九万六、七五八円の各期間への配分は、本件事故から死亡前日まで一、二七九日として事故翌日から昭和五二年三月一八日まで五九九日その配分割合四六・八三三四パーセント、同年三月一九日から昭和五三年九月六日まで五三七日その配分割合四一・九八五九パーセント、同年九月七日から死亡前日昭和五四年一月二六日まで一四三日その配分割合一一・一八〇六パーセントであることは計数上明らかであるので、これに従つて按分した。また、保険給付以外の弁済内容の名目は起算日を明らかにする意味で掲げたもので、その名目での弁済を確定した趣旨ではない。

八  結論

よつて、被告らは各自(不真正連帯債務)原告に対し、本件事故による損害賠償として、金一、五六二万二、四四六円(内容は別表1のとおり)、及び、別表2に従い、各履行遅滞後の内金五〇万三、二八二円に対する昭和五二年三月一九日から、内金二八七万三、二七六円に対する昭和五三年九月七日から、内金一、二二四万五、八八八円に対する昭和五四年六月七日から、各支払済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払義務を負う。原告本訴請求は右の限度で理由があるのでこれを認容し、その余は失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、八九条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 高木積夫 加藤一隆 荒井九州雄)

別表1 損害額一覧表

<省略>

別表2 遅延損害金起算日毎内訳表

<省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例